徒然なるままに ~歴史作品の感想他~

歴史作品の感想とか色々

源頼朝の兄弟について(鎌倉殿の13人第7話より)

歴史関係は感想を書いた作品に関連して記憶の新しいうちに語っていこうと思います。

さて、今回は鎌倉殿の13人で次々と集結していきそうな頼朝の兄弟について。

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頼朝は三男ですが、下は九男の義経まで多くの兄弟が居て(父義朝が頑張ったw)粒ぞろいです。然しながら、源平の戦いを生き延び子孫を残したのは頼朝だけ!(これも孫の代で滅ぶ)なんとも呪われた兄弟たち、、、この機にそんな兄弟たちについて簡単に調べていきたいと思います。

 

長男:義平(鎌倉悪源太) 1141-60

長兄の義平ですが、母親が遊女または相模豪族、三浦義明の娘と相対的に身分が低いため、嫡子にはなれず長庶子という扱いです。武勇で名を馳せ、15歳の時に武蔵の国で父義朝と叔父義賢(木曽義仲の父)が対立した際に、比企郡の義賢の屋敷を襲撃し、これを討ちます。これにより悪源太(悪は強い、源太は長男という意味)と畏怖を込めて呼ばれます。

そして20歳になった時の平治の乱では父義朝に従います。戦略眼にも長け、熊野に出ていた平清盛阿倍野(大阪)で討ち取ろうと藤原信頼に提言しますが、能天気な信頼に一蹴されてしまいます。また、平家大将の重盛を追いかけ、桜と橘の木の周りを7~8周も追いかけたというのも有名です。(いずれも平治物語より)

しかし、義朝方は戦いに敗れ、義平も追われる立場となります。義平は一旦飛騨まで逃げるも、引き返し清盛を討とうと京に潜伏します。しかしながら捕らえられ処刑されます。

大河ドラマでは平清盛(2012)で、浪岡一喜さんが演じました。イケメンで勇ましく、とても印象強かったです!

 

 

次男:朝長 1143-60

頼朝の4歳上の兄ですが、記録には乏しいです。母は相模の豪族波多野義通の妹と言われますが、義平より身分は高いようで、1159年の時点で従五位の位を得ていたと言われいます。平時の乱時点で成人していたので、義朝とともに戦いますが、逃亡中に比叡山の僧兵により負傷、傷の悪化を理由に逃亡を諦め、父義朝に殺害してもらったと言われます。

 

三男:頼朝 1147-99

解説は多々あるので、詳細は省きますが、母親由良御前は尾張熱田大宮司藤原季範の娘と言われます。当時熱田大宮司家の娘は帝や院の后の女房として仕える事が多く、それらに近い立場だったと言われます。故に頼朝が三男ながら嫡男としての扱いを受けたわけですね。

 

四男:義門 生年没年不詳

頼朝の同母弟ではありますが、早世したと伝わるだけで、記録に乏しい人物です。

 

五男:希義 1152-82(80?)

同じく頼朝の同母弟です。9歳の時に平治の乱の処分で土佐に流されます。頼朝が東国の伊豆に対し、西国の平家勢力内に流されたのが運命の分かれ道だったようで、1180年に頼朝が挙兵すると合流を警戒され、平家によって討たれる運命となります。

 

六男:範頼 1151-93

出年が五男希義と逆転してますが、この時代の記録にはよくあることです(笑)。母親は遠江池田壮(磐田市)の遊女だったと言われます。(義朝はそこまで通って為したわけですねww)

平治の乱の時点では活動は確認できず、遠江の国で藤原南家流の後白河近親、藤原範季に匿われていたと言われます。頼朝が挙兵した時点では、甲斐源氏等と共闘していたと言われ、頼朝の元に馳せ参じた記録は1183年の下野・野木宮合戦(対志田義広)からとなります。1184年には木曽義仲追討の大将軍として義経とともに義仲を討ち、ついで平家を追い詰めていきます。勝手な行動が目立つ義経に対し、範頼は大軍を率いながら着実に行軍を進めていきますが、慣れない海での戦や西国での補給に苦戦します。これを以て義経を上げる意図も込めて凡将と評されることが多いですが、一ノ谷や壇ノ浦も範頼の軍が周囲を包囲していたからこそ、義経が奇襲をかけれたという面も決して無視はできないと思います。

そして、平家滅亡後対立して追われる身となる義経に対し、範頼は引き続き頼朝に従って義経追討にも加わりその立場を安堵しますが、、、1193年、曾我兄弟の仇討ち事件で頼朝が討たれたと誤報が入った際に、嘆く北条政子に「後にはそれがしが控えております」と慰めたつもりで言ったが、この発言が頼朝に謀反を疑われ(殆ど言いがかり酷いw)伊豆に幽閉された上に、結城朝光・梶原景時・仁田常忠らに討たれます。(ここら辺、既に鎌倉殿にでてるメンバーやん、、、キツイな)

大河ドラマでは義経(2005)では石原良純さんが演じ、鎌倉殿の13人では迫田孝也さん(真田丸では矢沢頼幸役)が演じます。報われないけど味のあるポジション。楽しみですね!

 

 

七男:全成 1153-1203

阿野全成(あの ぜんじょう)として知られます。なにげに兄弟で一番長生きしてますね。

幼名は今若、母親は義経と同じく常盤御前です。常盤御前近衛天皇(崇徳天皇後白河天皇の弟で早世)の后の雑仕女で絶世の美女だったと言われます。その美貌を見初められ、義朝の側室となりました。平治の乱時点で七歳だった今若は京の醍醐寺に入れられ僧として修業しますが、以人王の挙兵とともに寺を抜け出し、石橋山の戦いに敗れた直後の頼朝と下総で合流します(兄弟で一番早い合流と言われます、鎌倉殿の伊豆大権現に登場は創作ですねw)。尚合流直後には北条政子の妹の阿波局と結婚します(実衣ちゃんですね!風は起こせなくても運命の出会いはあったのですねww)

尚、醍醐寺はれっきとした真言宗の寺なので風を起こせるかはwww

 

全成は源平合戦での記録は殆どありません。再び名前が出てくるのは頼朝の死後の1999年、舅の時政と結んで将軍頼家を廃し、阿波局が乳母をしている弟の実朝を将軍に立てようとします。しかし、逆に頼家の命を付けた八田知家(13人の一人)に殺されてしまいます。

尚、全成の子孫は鎌倉時代も細々と生き続け、後醍醐天皇の愛妾となった阿野廉子はその末裔と言われます。

 

八男:義円 1157-1181

母は全成・義経と同じ常盤御前、幼名は乙若。平治の乱の時点では3歳でした。近江の園成寺(三井寺で知られます)に入れられ、僧となります。1181年、叔父源行家と共に尾張で挙兵、墨俣川にして平重衡と対峙します。夜襲を企てるものの、失敗し義円は討ち取られてしまいます。この墨俣川の戦い源平合戦の中でも源氏の大敗北であり、特に行家はこの敗北から戦下手と酷評をうけます。

鎌倉殿の13人では成河さん義円を演じます。これまであまり注目をうけていなかった人物だけに楽しみです!

 

 

九男:義経 1159-1189

言わずと知れた存在なので省略w

 

以上、9名を簡単にですが説明してみました。