徒然なるままに ~歴史作品の感想他~

歴史作品の感想とか色々

室町中期の今川家督争いと鎌倉公方(新九郎奔る9巻より)

 

歴史語りは最近読んだ作品を中心に記憶の新しいうちにやっていきたいと思います。

 

今回「新九郎奔る9巻」気になったコマです。

 

普広院様(6代将軍足利義教・・・万人恐怖で知られております)の鶴の一声で先々代の今川当主は、範政(範満および義忠の祖父)が推していた千代明丸(範満の父)でなく、範忠(義忠の父)になったというエピソード。ここが義忠死後の今川家家督争いの発端にあったとということです。。

気になるので少し調べてみました。そして、そこには足利成氏の父、足利持氏も大きくかかっていることが分かりました。

 

1.今川家の発祥

 将軍家の血を引く名家とよく言われるように、今川家は義国流源氏、足利家の一門です。3代目当主義氏の長庶子長氏は母の家柄から嫡子とはなれず、三河国吉良荘を領したことから、吉良氏を名乗ります。更に長氏の次男国氏は三河国今川壮の地頭となり、今川氏を名乗ります。この時点で足利氏嫡流の頼氏とは従兄弟の関係。2度名は変わっているもののかなり近い血縁と言われます。

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尚、一門というのは後の代で別れた方が血が濃いと思うのですが、ここれ三管領家と今川家を比較してみます。

 

斯波家:三管領筆頭。4代当主泰氏の時に分かれます。

畠山家:2代当主義兼の時に分かれます。

細川家:初代当主義康の時に分かれます。

 

なんと、畠山・細川よりも足利の血が濃いこととなります!

今川の本家にあたる吉良氏は渋川氏・石橋氏とともに御一家と呼ばれました。

「御所が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われるように、足利宗家断絶後の将軍継承権すらあったようです。

 

 

尚、室町初期の今川家として、「逃げ上手の若君」33話で出てきた馬仮面(笑)範満を思い出しましたが、あれ、、、家系図に無いぞ(笑) Wikipediaに記事がないから省略していましたが、2代当主基氏の子で範国の兄のようですね(中先代の乱で戦死したので家督は継げず)。

範国の代に今川氏は足利尊氏により駿河遠江の二ヶ国守護に任ぜられます。

しかし、範国の次男、貞世が応永の乱に大内側に加担したと足利義満に疑われ、駿河遠江とも半国の守護とされてしまいます。その後駿河は再び一国守護となりますが、遠江守護には三管領の斯波氏が入ることとなります。

 

2.鎌倉公方足利持氏と今川範政

室町時代、鎌倉には尊氏の四男の基氏が入り、代々鎌倉公方世襲しました。この鎌倉公方が度々幕府に反抗するようになるのですが、今川氏は関東に近い駿河にて、これを監視したり、関東内の争いを調停する位置づけでもありました。

 

さて、「新九郎奔る」に出てくる義忠・範満の祖父である、範政の代の話。

1416年、関東管領の上杉禅宗が反乱を起こし、4代鎌倉公方足利持氏を追放する事件が起こります。範政は持氏を駿河にて匿い、4代将軍義持の命を受けて、禅宗を討ちます。そして、6代将軍義教の代になっても範政は将軍家に重用されます。ご存知の通り、将軍義教と鎌倉公方持氏は大変仲が悪く、度々一触即発となるのですが、この緩衝役ともなりました。

範政は1433年に亡くなりますが、家督相続はまだ幼少であるも溺愛する末子の千代秋丸(小鹿範頼)をしようとして、多くの家臣も賛同するのですが、嫡男の範忠を推す家臣団もおり、熾烈な家督争いに発展します。ここにまず介入してきたのが、鎌倉公方の持氏で千代秋丸を推します。範政への恩もあるのでしょうが、関東より西である駿河にも介入して勢力を広げる狙いだったのでしょう。

これを許さないのが将軍義教です。鎌倉公方の介入を抑えるためにもなんとしても対抗する成人済の範忠を守護にする必要があり、将軍権力を強行します。不満を持っていた家臣団も将軍様に逆らうわけにはいきません。こうして今川家の家督争いは収束します。

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3.今川範忠と鎌倉攻め

将軍義教の後押しで当主となれた範忠は、幕府に忠義を尽くします。鎌倉公方と将軍家のいよいよ険悪化した後、1438年に永享の乱・1440年に結城合戦が勃発し、鎌倉公方は一時滅びますが、この時も範忠は果敢に鎌倉方を攻め、武功を上げました。この功により同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」の恩賞が与えられます。これにより、家督を継げなかった範頼は小鹿姓を名乗ることとなります。(この宗家の名門意識と庶流の遺恨も範満と龍王丸の家督争いに拍車をかけたものと思われます)

 

鎌倉公方は1449年再興しますが、鎌倉公方足利成氏は1455年関東管領上杉憲忠を誅殺します。これを反逆と見做した幕府は討伐を決しますが、在京していた範忠は後花園天皇から錦の御旗を受け取り、嫡男・義忠と共に成氏が留守にしていた鎌倉を攻め落とします。鎌倉には1460年まで5年間駐在しましたが、領国に戻った後、程なく亡くなります。

その間、上杉方(幕府方)は古河公方方に始終押されており、鎌倉を取った今川家にも特段恩賞はないため、将軍家の恩のある範忠はともかく、息子の義忠にとっては旨味のない戦と見えたのかもしれないですね。

(このあたりは「新九郎奔る」の8巻に詳しいです)

 

以上、長くなっていましたが、今川家と鎌倉公方について少し触れてみました。