徒然なるままに ~歴史作品の感想他~

歴史作品の感想とか色々

ばさら大名 佐々木道誉について(逃げ上手の若君50・51話より) ~後編~

さて、後半記事を書く前に、佐々木道誉は映像作品では大河ドラマ太平記(1991)で陣内孝則さんが演じたのが有名です。いかにも食わせ者な感じがしますね!

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3.室町幕府の最大実力者

道誉の活躍は尊氏の側近としても太平記などで多く描かれていますが、個人的により注目すべきは尊氏の死後だと思っています。道誉は尊氏より15年長く1373年まで存命であり、これは2代将軍義詮(1367年没)より長く、3代将軍義満の代となります。

 

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既に多くの南朝派および北朝派の主要人物も亡くなっており、道誉は2代将軍義詮から絶大な支持を受け、幕政を支えることになります。室町幕府を支える役職は管領が有名ですが、義詮就任時には執事という名称で、この任命権を道誉は握り実質上の最高実力者となっていました。1362年、斯波義将を執事に推薦し、以後執事は管領と名乗るようになります。然しながら、義将は13歳と若いため、父の高経が後見し、程なく道誉と対立するようになります。すると高経・義将を失脚させ1366年、細川頼之管領に推薦します。道誉の死後、斯波義将は再びクーデターを起こし(康暦の政変)、管領となりますが、3代将軍を義満支えたこの二人の管領は道誉が推薦した人物ということになります。更に、1367年に関東で初代鎌倉公方足利基氏が急死すると、関東に下向し、幼少の息子氏満を補佐します。同年、足利義詮も死去、将軍は10歳の義満が継ぎます。

道誉がこの時、引き続き関東に居たか、幼年の義満を補佐していたか、既に隠居していたかは記録に乏しいですが、どちらにしろ尊氏死後の室町幕府を方々で支えていた生涯であったことは間違いありません。

 

4.ばさら大名

道誉を有名にしているのが、「ばさら大名」であったということです。ばさらとは南北朝時代に流行した、古くからの権威を否定し派手な振る舞いや華美な服装を好む美意識

(今でいうヤンキーですなw)で、語源はサンスクリットのバジャラ(=ダイヤモンド:ダイモンドのような硬さで常識を打ち破る)から来ており、婆娑羅などと漢字表記もします。

大ヒットゲーム「戦国BASARA」まさにこの意味で、マクロス7の主人公「熱気バサラ」のこの意味から付けられているでしょうね(笑)

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そんな感じでゲーム・アニメでもよう使われるようになり、なんか馴染み深い言葉になってますねww

 

尚、佐々木道誉は実際どんな「ばさら」だったのでしょう。太平記に二つ有名なエピソードがあります。

①道誉も南朝方との合戦に敗れ都落ちすることもありました。都を追われ、屋敷を出た道誉ですが、占拠する武将をもてなすため、部屋も庭もこれでもかと飾り立て、従者2人を残し酒を勧めさせたといわれます。敵将の楠木正儀(楠木正成の四男)はこのもてなしに関心し、屋敷の焼き払うことを止めたと言われます。

②前述の政的であった斯波高経が義詮の御所で花見を計画した際、出席を返事しておきながら出席せず、同じ日に別の場所で京中の芸者をことごとく集め花見の宴を行い、高経は芸者を呼べず面子を失わせた。

 

・・・確かに派手ですが、意外と常識人的ですね(笑)

高師直の「帝や院は木か金物の像で作り、生きてるそれはどこぞへ流してしまえ」と豪語する方がよりカオスな感じがしますww個人的には。

一方、道誉は華美を好むと同時に連歌・茶道・猿楽などにも通じ、公家との交流もありました。義満の開いた北山文化にも多大なる影響を与えたともいえます。

 

5.魅摩との関係について

道誉が死ぬ間際の書状で近江尼子郷を譲る先に「みマ」という名前があり、更にそこに深い愛情を示す記述があったと言われます。そこから側室の「北」と同一人物だと評されています。つまり娘ではなく、妻だったようですねww、尚正室政所執事二階堂時綱の娘であり、みマ=北は出自不詳のようです。

 

そういえば逃げ若で魅摩の髪飾りは佐々木氏・京極氏の家紋の四ツ目結を模していましたね!こういった細かいとこも拘る松井先生はすごいです!

 

6.道誉の子孫について

道誉の子孫は京極氏として四職の一つとなり、飛騨・出雲・隠岐の守護を歴任します。また、近江守護は代々六角氏となりますが、北近江に広大な所領を有し、守護不入権で実行支配していたと言われます。しかしながら、応仁の乱以後は家督争いなどで弱まり、出雲・隠岐では分家でもあり守護代尼子氏が、北近江では守護代浅井氏が、飛騨では守護代三木氏が下克上により台頭し、これら守護代家が戦後大名となっていきます。京極氏も滅びたわけではなく、同じ近江源氏を祖とする南近江の六角氏の支援を受け、更には足利義輝・義昭の近習となって生き延びます。織豊時代京極高次が信長・光秀・秀吉に仕え、大津6万石の大名となります。更には浅井長政と市の次女、初を正室に迎え、関ヶ原の戦いでは東軍につき若狭小浜藩初代藩主となり、明治まで続く有力大名家となります。