徒然なるままに ~歴史作品の感想他~

歴史作品の感想とか色々

ばさら大名 佐々木道誉について(逃げ上手の若君50・51話より) ~前編~

南北朝期の人物については詳しくないのですが(太平記も読んでないし)、この機に魅摩ちゃんの父親、佐々木道誉について調べてみました。きっと逃げ若本編でも重要人物として活躍しくれることでしょう!

 

1.佐々木氏の系譜

佐々木氏は宇多天皇の第8皇子である敦実親王の流れをくむ宇多源氏を祖とします。

同じ源氏でも源頼朝等の祖とするのは清和源氏で、祖となる帝が異なります。宇多天皇清和天皇の3代後の天皇で従兄弟に当たります。そもそも源氏は皇族が臣下になった時に賜る姓の一つで、特に源氏は嵯峨源氏村上源氏など祖となる帝の源氏が数多くいます。後に近江国佐々木壮(近江八幡市)に根付く軍事貴族となり、摂関政治の最盛期に佐々木氏を名乗ります(祖については諸説あるようです)。

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佐々木氏は近江で大きな勢力を持ちますが、秀義は平治の乱源義朝に味方し敗れ、一時近江を追われ、相模国渋谷荘(大和市あたり)に落ちのびます。

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この秀義が鎌倉殿の13人に出てきた、歯がなくなりかけていたじーさんです!

馳せ参じた、息子達も頼朝に協力し武功を上げますが、その後長男の定綱の子達が佐々木家を継ぐようになります。高綱の嫡子、広綱は承久の乱後鳥羽上皇方について処刑されますが、弟の信綱は北条方につき、佐々木氏は北条政権の中でも重用されるようになります。

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佐々木氏は信綱の子の代に六角氏と京極氏に分かれます。六角氏は主に六波羅に勤める一方、京極氏は鎌倉と京の申次などを歴任し、幕府に重用されます。

尚、佐々木道誉は佐々木を名乗っていますが、氏族としては既に京極であり、京極道誉(もしくは出家前の京極高氏)とも呼ばれます。

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道誉(高氏)は傍流の産まれでしたが、当主であった伯父貞宗が後継ぎなく早世したことにより京極家の当主を継ぎます。

 

2.鎌倉幕府重臣であった道誉

道誉は1196年生まれ、足利尊氏より9歳年長です。出家前の名前高氏(足利高氏と同じ名!)は執権の北条高時(時行の父)から1字を受けています。佐々木(京極)氏はそれだけの重臣であり、道誉は主に京で検非違使などを務めていたと言われています。1326年に執権高時が出家した時に共にに出家し(こうすることで忠義を示してました)、道誉と名乗ります。31歳(数え年)での出家とは早いですが、僧になっても結局俗世で暗躍し続けるのがこの時代ですww

後醍醐天皇の挙兵に対しては北条方として鎮圧側となりますが、足利尊氏のように裏切ったという記録もなく、鎌倉幕府滅亡時の動向は不明と言われます。ただ、建武新政開始時には雑訴決断所に仕えていますので、うまく立ち回ったのでしょう。どこかで北条にに見切りをつけ離反していたか、もしくは実務能力の高さを見込まれ、元敵方としても後醍醐帝が重用したか。。。いずれにしろ道誉も先見の明があったといえます。

 

また、時行が信濃で立ち上がる中先代の乱では、尊氏とともに鎌倉討伐対に名を連ねており、若が京に来ている時点(1335年6月)で史実でも尊氏とは強いつながりがあったことが伺えます(史実の尊氏の性格的には覇業を遂げようとしてたかは分かりませんがw)

 

 

この流れだと、逃げ若でも道誉が時行と戦場(鎌倉)で対面する可能性も高そうですね。

 

長くなってきたので、前後編に分けます(笑)