徒然なるままに ~歴史作品の感想他~

歴史作品の感想とか色々

常陸佐竹氏と金砂城の戦い(鎌倉殿の13人より) ~後編〜

すみません、前中後編で佐竹氏について記事を書く予定でしたが、中編と後編が空いてしまいました。

後編では金砂城の戦い以降の佐竹氏について概略を説明します。

 

5.鎌倉時代の佐竹氏

金砂城の戦い後、秀義は所領を没収されますが、1189年の奥州合戦では頼朝に従い義経の征伐軍に加わっている記録が見られます。その時に白旗を持参したところ、頼朝の旗と紛らわしいので、扇を入れるように命じられたと言われ、そこから佐竹家の家紋、扇に月が生まれたと言われます。

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4代当主の義重(鬼義重とは別)は承久の乱では北条方について武功を上げますが、常陸の旧領を取り戻すまでには至りませんでした。その中でも8代当主貞義は9代執権北条貞時から偏諱を賜るなど、幕府に近づくことに成功します。後醍醐帝が倒幕の挙兵をすると、北条方の討伐隊として武功を上げますが、足利尊氏の調略をうけて、倒幕方へと寝返ります。

 

6.南北朝室町時代の佐竹氏

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貞義はその後も尊氏に味方し、中先代の乱(1335年)ではその功績により常陸守護を認められます。尊氏が後醍醐帝と訣別した際も、尊氏方につき9代当主義篤は北朝方の中心となり、関東内でも一大勢力となります。小山氏が2代鎌倉公方足利氏満から討伐された際には、小山方について小田氏との縁戚関係を警戒されるも、11代当主義盛の時代には関東八屋形に列せられます。

義盛は男子に恵まれず、3代鎌倉公方足利満兼の計らいにより、山内上杉家の義人を娘の源姫の婿に迎えて12代当主につかせました。これにより一旦義光流源氏の血は途絶え、実は以後の佐竹家は上杉氏の血筋ということになります。勿論、これによるお家騒動もあり、庶流の山入家が上杉家の相続に反対し、宗家に反旗を翻すようになります。山入氏との争いでは、4代鎌倉公方足利持氏が佐竹宗家を支持し、鎌倉公方との関係が強固になります。しかし、これは義人にとっての実家である山内上杉家や幕府との関係を悪化させることとなり、永享の乱結城合戦の後、6代将軍義教は佐竹家討伐を計画してたとも言われます。更には、次は山内上杉家家督争いにも巻き込まれることとなります。結城合戦後、上杉憲実は息子も含め出家させ、関東管領復帰を拒否、山内上杉の血を引く義人の次男である実定を次期関東管領に推薦します。しかし、山内上杉家宰の長尾景仲などが猛反対し、憲実の嫡男の憲忠を関東管領につかせます。関東管領になれなかった実定ですが、次は家督争いを起こし、父とともに嫡男義俊を追放します。この間、享徳の乱が勃発し、関東の支族一族間でも上杉方と古河公方方に分かれて争う時代となります。常陸でもこれに乗じ山入氏や新たに勃興した江戸氏の反攻が強まり、義俊は実定を追い出して13代当主となるものの、これらの勢力に苦戦することとなります。

 

7.戦国〜織豊時代の佐竹氏

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14代当主の義治の時代となると、関東全土の混乱が続く中、山入氏に呼応して奥州の伊達氏・芦名氏・白河氏などが佐竹領に侵攻しますが、これを退けます。15代当主義舜(よしきよ)は1490年山入氏に攻められ常陸太田城を追われるも、1506年までにこれを奪い開始、山入氏の主たる者も攻め滅ぼします。その後は古河公方の後継争い(永正の乱)や白河氏の家督争いに介入し、勢力を広げます。義舜は佐竹家の戦国大名化を成功させた中興の祖と言われています。

その後は16代義篤・17代義昭・18代義重と続き。特に義重はその勇猛さから鬼佐竹と武勇を馳せ、豊臣政権下でも常陸一国54万石を安堵され、石高8位の大大名となります。

 

8.江戸〜現代の佐竹氏

関ヶ原の戦いにおいて、佐竹氏は在国のまま傍観するという中立的な態度をとりました。これが上杉との密約が疑われるなど裏目にでて、戦後、家康より出羽秋田20万石への転封を命じられます。(この時、腹いせ常陸の美人を皆連れて行ったため、秋田には美人が多いと言われますw)

久保田藩(または秋田藩)と称し、改易・転封の続く江戸時代も一貫して佐竹家が秋田の地を領有し続けました。明治維新後は華族い叙され、現代でもその家は続いています。

2009年から12年以上在職の秋田県知事佐竹敬久氏は、その末裔です。