徒然なるままに ~歴史作品の感想他~

歴史作品の感想とか色々

武士の鑑と呼ばれる斎藤実盛(平家物語6話より)

アニメ平家物語6話で強面で東国武士の勇猛さを語り、維盛をこれでもかと怯えさせた斎藤実盛(画像最左)です。

平家物語原典でも「東国武士は親が討たれても子が討たれても構わず、その屍を乗り越え乗り越え戦う。その引く弓は鎧の2、3着を重ねて、たやすく射通する。」と記述はその通りあったようですね。

 

 

然しながら、自分の持っている実盛のイメージは優しく・潔い老兵です。これからの和数の限られているアニメ平家物語、そしてメインはが鎌倉となる鎌倉殿の13人では取り上げられるかわかりませんが、その物語について、簡単に触れてみます。

1.幼い木曽義仲の命を助ける。

斎藤氏は藤原北家を祖とし、越前を中心に北陸一帯に勢力を築きました。実盛も越前国の出身でしたが、東国に出て武蔵国長井壮(熊谷市)に拠点としました。尚、戦国大名の斎藤氏も越前で興った斎藤氏の一族で美濃斎藤氏と称され、室町期は美濃守護代世襲しました。(ただし、かの有名な道三は家督簒奪しているのでその系譜ではないですけどね。。。)

1150年頃(実盛40歳前後)、関東では源氏の身内争いがあり、為義の長男義朝(頼朝・義経の父)と次男の義賢(義仲の祖父)が争っておりました。実盛は義朝に仕えつつも、義賢にも近い立場にありました。

1155年、義朝の長男義平が義賢を襲撃して討ち取ります。この武勇により義平は鎌倉悪元太(悪は強い・猛々しいの意)と呼ばれるようになります。そして義賢の子であり2歳の駒王丸(後の義仲)も処刑されそうになりますが、これを助命したのが畠山重能(鎌倉殿の13人で活躍している下図のイケメン武将、畠山重忠の父)と斎藤実盛です!

 

実盛は駒王丸を信濃木曽の豪族、中原兼遠に預けます。義仲にとって、実盛は命の恩人なのです!!

2.源氏配下から平氏配下へ

実盛はその後の保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)では義朝方の武将として出陣しますが、平治の乱で義朝が敗れた後はその武勇を見込まれ、平氏に仕えます。裏切者とも思えるかもしれませんが、領地と領民を守ることが大切な武家 、同じ義仲を助命した畠山氏も平氏に降ったのだから、世の倣いというものです。源頼朝の挙兵に伴い、実盛も平家側として戦いますが、石橋山の戦いおよび不随する合戦では名前は出てこないようです。隣の畠山は平家側として奮闘していますが、、、、。そして実盛の名が再びでてくるのは前述の富士川の戦い(1181年)で、東国武士を良く知る者として、維盛のその様子を尋ねられたのが冒頭のやりとりです。

3.その最期と伝承

平家が富士川の戦いで無様な撤退をした後も実盛は平家方として従います。1183年、再び維盛に従い、目下の敵は信濃を出て北陸道から進軍してくる木曽義仲、、かつて命を救った源氏の御曹司です。しかし平家は越中国般若野(高岡市)の戦いで敗れ、更には越中加賀国境の倶利伽羅峠で義仲側の奇襲を受け、多くの兵が谷底に突き落とされるという大敗を喫します。(角にたいまつをつけた牛を走らせ谷底に突き落としたという説もありますが、中国の故事にもあり恐らく創作でしょう)。潰走した平家方は必死で京を目指しますが、義仲方の容赦ない追撃が迫ります。実盛は殿を引き受け、加賀国篠原(加賀市)で義仲軍を迎え撃ちます。実盛は既にここを最期の地であると覚悟しており、最期こそ若々しく戦いたいと白髪を染めて出陣します(既に実盛72歳)。

敢え無く実盛は討ち取られ、首実検のために義仲の前に差し出されます。その髪を洗ったところ、白髪が現れ、実盛であったことが分かります。かつての命の恩人を討ってしまった義仲は人目もはばからず泣き崩れたと言われます。この伝承が、平家物語でも語られ能や人形浄瑠璃の題材となっています。

こうして、斎藤実盛は「武士の鑑」として後世に伝えられるようになります。

 

アニメ平家物語でも鎌倉殿の13人にもカットされてしまうかもしれませんが、その最期が壮絶に描かれることをわずかながらでも期待しております!!